2月のみかづき。

外国語を使うのって疲れませんか? それでも”やがて哀しき外国語”と付き合っていく。

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今週はものすごーく、疲れた。

授業が始まって最初の1週目だったということもある。

だけどそれ以上に、「外国語を使うということは、こんなにもエネルギーを使うのか」と、分かっていたようで忘れていたことを体感した、1週間だった。おかげで昨日は、半日くらい寝て、本当魂が抜けたようにぼーっとしていた。 

今週は、久しぶりに担当する英語の授業が始まって、週5日クラスがあった。初めてってことでかなり気を張って話す。

飲み会が3回。

オーストラリアの先生の送迎会や見送りで、ラオス語と英語に挟まれる。

そんないつも以上に外国語に囲まれた週の最後。

金曜日の授業後の飲み会。初対面の人とラオス語でコミュニケーションを取る状況になった時、ラオス語が全然入ってこなくて泣きたくなって。「もう今週は無理だ!」と、さりげなくトイレに逃げ込んでやり過ごして、帰ってからは泥のように眠った。

 

起きてから何もやる気が起きず、思い出したように、手元にあった村上春樹さんの「やがて哀しき外国語」というアメリカに滞在していた時に書かれたエッセイ集を読んだ。

一対一で話す分にはまだそれほどの不便はないのだけれど、それが四人になり五人になり、会話が仲間うちの機関銃的ラピッド・ファイアになってくると、もう話の筋を追っていくだけでやっとである。話自体はなかなか興味深くあるのだけれど、じっと聞いていると二時間くらいで神経がくたびれて弛緩してくる。神経が弛緩してくると、集中力が低下してきて、こっちの英語もだんだんうまく出てこなくなる。ウルトラマンじゃないけれど、いわゆる「電池切れ」の症状である。外国語の会話をなさった方ならだいたいこの「電池切れ」症状を経験しておられるのではないだろうか。

この部分を読んで、「昨日の私は、まさに”電池切れ”だった!」と思わず、一人で頷いた。そうだ、この疲れきった感覚は初めてじゃない。ここまでじゃないにしても、今まで何度か感じたものだ。

 

普段あまり意識していなかったけれども、母国語で当たり前にしている簡単なことでも、外国語でやると何倍ものエネルギーを使う。

実際、外国語を喋っている時の脳は、母国語で話している時によりも何十倍も活発に働いているらしいし。常に「これは何て言うんだ」なんて考えていたりで脳は一生懸命はたらいて疲れているし、それに伴う”メンタリティ”も伝わらないもどかしさだったりで、結構つかれるものだ。

うん、伝わらないってやっぱりもどかしいもので、どこか寂しいもの。(まぁ、母国語ででも話していて、「ああ、伝わらない!」と思うことはたくさんあるだろうけれども外国語だと余計に。)ラオス語と英語を混ぜて話していると、コミュニケーションとして成り立ってはいるけれども、言葉と言葉の中間で泳いでいるようなおぼつかない気持ちにも時々なる。

 

良いも悪いもなく、外国語を使うっていうのはエネルギーを使う。

これを自覚してあげないと、エネルギーがすり減っていることに気がつかず、色々なことにイライラしてしまう。(私はそう。)

外国語を悪者にするわけじゃなくて、そう思うと「うん、じゃあちょっと休もう」と思える。

だって、誰も悪くないんだもん。ただただ、外国語使って生活してるだけで、結構エネルギー使ってるんだよなぁ、と気付いてあげる。

普段からもの凄く気分屋な私ではあるが、今週のイライラは何か底に( __________) こんな感じでずっと続いているものがあるような気がしていて。自分でも、「なんでこんなにイライラしているんだろう?」と思っていた。

「あー、今週はめっちゃエネルギー使ったんだなー」と思うようにしたら、なんとなく心の置き所が見つかったような気がする。

 

周りからは外国語使ってる=エネルギー使ってると思われたり、慰めてもらえることってあんまりない。

その分、自分ではたまに思い出した時、疲れた時にでも「そうだよね、疲れたよね」なんて思ってあげると、ちょっと楽になる気がする。自分にとってもいいし、周りにも八つ当たり(ごめんなさい)しないで済む。

エネルギーの残りが少ない時、相手の言葉で話していて、容赦なく話されると「ちょっとずるくない?もうちょっと、気ぃ遣ってよ!」って言いたくなる(笑)「こっちにはハンデがあるんだからさ。」って。うん、そうだ。言葉が出来ないっていうのは立派な(?)ハンデなんだと思う。

(そういえば国内にいながら、「英語が出来なくて、すみません」なんて、逆に謝るのは日本くらいなのかな。どうなんでしょう。)

 

もっとひどいと、「何で私だけがこんな頑張らなきゃいけないのよ」って思っちゃう。外国語を使う=がんばっている、でもいいのかもしれないけれど、(私もそう思っていた)これだと 外国語を使わない周りの人=がんばっていない、外国語を使う自分=がんばっているとなって、疲れた時に周りの人を責めたくなる。

外国語を使う=エネルギーを使うものだ、と思っておく方が、なんとなくいい気がする。

 

こちらに来て1年の私のラオス語は、なんとか意思疎通は出来たり、他の外国人から見たら「すごいね」と言われるけれども、まだまだお粗末なもの。 

外国語を話すという作業には多かれ少なかれ「気の毒といえば気の毒、滑稽といえば滑稽」部分がある。(略)英語を一生懸命話しながらふと「なんでこんなことをやってなくちゃならないのか」と思うことがある。

店の売り子に「ホワット?」と大声で聞きかえされたり、自動車修理工場へ行っておっさん相手に汗をかきながら訥々と症状の説明をしたり(ウィンカーって英語でなんていうんだっけ?)していると、ときどき自分が情けなくなってくることがある。通りを歩いている五、六歳のアメリカ人の子供がすらすらと綺麗な英語を話しているのを耳にすると、「子供でもこんなにうまく英語を話すのになあ」と思って愕然としたりする。考えてみれば当たり前の話で、いちいち愕然とすることでもないのだけれど、なんだかふとそんな風に思ってしまう瞬間があるのだ。まあ自分の意思で日本を出てきたわけだから、誰を恨むこともできないわけだけれど。

ラオスに来てすぐにしたホームステイでは、2歳の女の子よりも話せなかった(笑)(比べたら、今でもそうかも。)

エネルギーがまだ残っている時は、間違ったり変なこと言っても、一緒に笑い飛ばせたり。子供のように「教えて教えて」と学ぶことを楽しめるんだけれども。疲れている時なんかに、すんごく簡単なことも通じないと結構凹む。

夜一人で、英語とラオス語の辞書とにらめっこしてると、「私は何をしてるんだ」と思いたくなる時もある。

外国から来た他の英語の先生は、ずっと英語だけで話していて、その人に対しては皆(ラオス人)英語で頑張って話しかけたり、ちゃんと通訳つけたりしてるのに、私にはラオス語で話したり(英語でも話せるじゃん!)、通訳や説明もなかったりすると、「なんでよーーー。」と思いたくもなる。

こっちは、クラスでは、母国語じゃない英語を教えて、事務所には英語で話せるスタッフが他の先生たちにはいるのに私にはいないし、飲み会ではラオス語に巻き込まれる。クラスでも、オフィスでも、外でも、なんだ私だけ頑張らなきゃいけないのよ!と思いたくなる。

いや、本当全部自分で選んだけどさ。今週は時に帰国したオーストラリアの先生や、他の場所で教える先生と話をしていたり、今更ながらこう思っていた。

 

 だからといって、ラオス語を勉強しなきゃよかった?と思うと、それはやっぱり違うんだよなぁ。何度も書いてるけど、やっぱりラオスで生活する上で、ラオス語は勉強してきて本当によかったと思う。言葉が全てではないけれど、同じ言葉を使ってはじめて分かりあえる所、絶対ある。

  

上で引用させてもらった、村上さんのエッセイは、何ヶ月か前にタイトルに惹かれて、JICAのドミトリーから借りていたものでした。

この本の「やがて哀しき外国語」というタイトルは、僕にとってはけっこう切実な響きを持っている。本の題にしようと思ってから、折りに触れてこの言葉が僕の頭に浮かぶようになった。(中略)しかし、「哀しき」と言っても、それは外国語を話さなくてはいけないのが辛いとか、あるいは外国語がうまく話せないのが哀しいということではない。もちろん少しはそれもあるけど、それが主要な問題ではない。僕が本当に言いたいのは、自分にとって自明性を持たない言語に何の因果か自分がこうして取り囲まれている、そういう状況自体がある種の哀しみに似たものを含んでいるということだ。どうも回りくどい言い方になって申し訳ないのだが、正確に言えばそういうことになる。

(中略) 

一人の人間として、一人の作家として、僕はおそらくこの「やがて哀しき外国語」を抱えてずっと生きていくことになるだろう。それが正しいことなのか、それほど正しくないことなのか、僕にはよく分からない。非難されても困るし、褒められても(まあ褒める人もいないだろうけれど)困る。そこが僕の辿り着いたところだし、結局のところそこにしか辿り着けなかったのだから。 

そう。良いわけでも悪いわけでも、正しいわけでも正しくないわけでもない。

ただ外国語を使う時には、どこかちょっと哀しい気持ちがいつもどこかにある。”悲しい”ではない。どこか少し甘さのあるような、なんだか切ないような。上手く説明できないのだけれども。

アメリカで勉強していた時や海外に行った時、英語を学んでいた時に感じた、悔しかったり恥ずかしかったり、もどかしかったり、嬉しかったりといった色々な気持ち。

そういう経験や感情もどこか後ろにくっついているからか、この「やがて哀しき外国語」という言葉は、なんだかとってもしっくりくるものがある。上手く説明出来ないのだけれど。

言葉が全てではない。けれども、日々の多くを占める言葉。その言葉を”自分のもの”に出来ないとき。”自分のもの”が使えないとき。ああ、”自分のもの”じゃないなぁと感じるとき。(”自分のもの”ってどういうことだ)やっぱりどこか哀しく感じるんだろうか。10年とか20年の単位で外国に住んで、母国語以外の言葉で、生活の大部分を過ごしたら、どんな気持ちになるんだろう。

 

 あと1年はラオスで英語を教える上で、間違いなく外国語に囲まれながら生活していくし、そのあともきっと何らかの形で外国語と付き合っていくのだと思う。

疲れた時は、「よしよし、エネルギー使ったなぁ」と思って ちょっと慰めたり休んだり、嬉しい経験は味わいながら。息切れしないように付き合っていきたいなぁと思いましたとさ。

・・・なんて書きながら、週末フランス語を学びにいって、自らエネルギーを使いにいくという。どМか。

 

さ、また明日から!

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

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