サバイディー(こんにちは)。
今日はほぼ日というウェブサイトで、コピーライター(といって言いのかしらん)の糸井重里さんが毎日更新している「今日のダーリン」というコラムを読んで思った、「個人で表現するのに大事なのことって何なんだろう」ということを。
まずは、コラムの引用を載せさせてもらいます。
個人のメールマガジンが、いくつもスタートして、
いくつかはお試しで読んでみたり、
有料のものを購読したりしていたけれど、
いつのまにか、ひとつ止め、ふたつ終了していき、
気がついてみたら佐々木俊尚さんの有料メルマガだけが、
やめないままで残っていた。
意見の相違だとか、なにを求めているかによって、
購読者の考えもちがうだろうから、なんとも言えないが、
一通ごとのメールに、しっかりと考えた文章を書き、
丁寧に「読むべき」記事を列挙しているメルマガは、
ぼくにとっては、課金に納得できるものだと思っている。
ずっと、読みごたえのある思考の跡が届けられている。
個人の表現を、個人が管理して仕事にしていくのは、
とてもいいことだと、ぼくは思っている。
いいものなら、いい評価を受けるだろうし、
たいしたことないものでも、それなりの評価を受ける。
トータルで食っていけたら、万万歳だ。
ただ、ひとりの仕事をずっと、ある程度以上の水準で
続けていくのはとんでもなく大変なことだと思う。
なまけてしまうとか、飽きてしまうというのはもちろん、
反響が芳しくないときにやる気をなくしてしまったり、
購読者を増やしたいあまりに、危なっかしい情報や、
スキャンダラスな物語に飛びついてしまうとか、
忙しさのあまりに、取材が疎かになっていっていくとか、
自ら堕ちて行くような罠はいくらでもある。
だから、並外れた「ひとりの企業努力」が必要になる。
これは、なんて言うか、
「決意」や「情熱」だけでは補えないものなのだ。
怪しげな「情報商材」とかいうものまでも含めて、
急いでビジネスを成り立たせようとすると、
じぶんのサイズを大きく見せようとすることにもなる。
ずっとうまく行ってるように見せ続けないと、
購読者が離れてしまうのではないかと不安にもなる。
そういう誘惑から距離をおいて、等身大のまま
表現活動を続けている人は、それだけで価値だと思う。
ツイッターにあった高峰秀子さんのことば。
「信用だけでしょ、しょせん人間の宝は。」
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「等身大」なら小人物なりに信用ができる、が信条だよ。
以上、引用おわり。
今日のコラムを読んで思ったのは、
①個人で表現することを仕事にする難しさ、と
②個人として表現をする時に何を大切にしたいのか、という2つのこと。
本当にたくさんの人が、ネット上に自分の場所を作って、自分の気持ちを外に向けて発信している。
ブログなどを通して、ネット上で個人として自分を表現してお金を稼いでいる人たちも大勢いる。ブログを書き始めてから、”プロブロガー”として、ブログを書くことで、生活している人がいることも知った。
・・・とここまで書いてきて、もう1度、この日のほぼ日の文章を読んで、ぽかんとお父さんのことが浮かんだ。
私はお父さんが、形は違えども、長年個人で表現することを仕事にしているのを見てきて、「個人として働くってのは何て孤独なんだろう」と思っていた。
それと同時に、個人として認められたり、必要とされている姿も見た。それが、見えないところでの1人での長時間の練習や、それを継続してきた積み重ねに支えられていることも。
それが実績だったり、信用につながって、私たち家族が何不自由なく生活できたということ。すこし大人になって実際にいろいろな人から求められているお父さんの姿を見に行く機会をもらって、はじめてストレートに入ってきた。
・・・すこし話がそれてしまったけれど、それでもお父さんには業界や仕組みがあるなかでやっている。だからこそ求められているもの基準が高かったり、責任もともなう。
でも今ネットで情報を発信している人たち、それでお金を稼いでいる人たちって、自分たちで仕組みを作ったり、元あるものの中をつなげたり。もしくは、色々なシステムをどんどん組み立てたり、移動しながら自分の場所をつくった上で、発信してお金を得ている。
しかも、それを個人で全部こなしていく。なんの保障もないところで。
ただ、ひとりの仕事をずっと、ある程度以上の水準で
続けていくのはとんでもなく大変なことだと思う。
本当にそうだと思う。 すごいなぁと思う。
そういう人たちを見ていると、ああ敵わないなぁとも思うし、「私はそうなりたいか?」とよく分からない。
今このブログには、1日だいたい100人くらいのアクセスがある。
知り合いが読んでくれる場合、検索から来てくれる場合がだいたい 3:7くらいの割合で、検索の方が多くなってきた。
ブログとしては、すごく多くの人に読まれているわけではないけれども、私が書いたものが1日どこかの誰か100人くらいに読まれているかもしれない・・・のいうのは不思議な感じ。
等身大のまま
表現活動を続けている人は、それだけで価値だと思う。
特に答えもなくつらつらと書いてきたけれども、私は一番大事なこととしては、「正直で素直なブログを書きたい」と。
やっぱりブログを書いていると、「もっと多くの人に読んでもらいたい」という気持ちが大小なりとも出てくる。
読みやすさや、アクセスされやすさ等も、やっぱり書く上では意識していきたいけれど、一番大事にしたいのは、正直に素直に書くこと。
あくまでここは、私のブログ。そして私にとってはお金を稼ぐのが目標ではない。読まれるために、思っていないことや、言いたくないことをいうためにあるわけではない。
せっかくブログという形で可能になっている、個人として表現としていく自由。手放したくないなぁ。
おまけ
この記事を書き足した 7月30日の今日のダーリンの書くことについて。1日でなくなってしまうから、みんな残してしまいたくなる。
書くことも大事にしたい。書かない時間も大事にしたい。
書きたくないことや、書かないでいたいこと、
書けっこないことや、書けそうだけどあきらめたこと。
つまりは、書けないことばかりが、
マリンスノーのように降り積もる。
もともと、いつの時代もすらすら書きやすいことなんて、
ほとんどなかったにちがいない。
人が口に泡をためて大声でなにか言うのは、
なにか目的のあるときだろう。
生きることは、できているのに、
言うこと書くことはややこしい。
ほとんどの、生活の場面にいる人は、
そう感じながら日々を過ごしているのではあるまいか。
言うしくみも書くしくみも、人間には付いているので、
手を使いたいように、足を使いたいように、
目を耳を使いたいように、ちんこを使いたいように、
言いたくなったり書きたくなったりすることもある。
そういうとき、人はラーメンを食べて
それについて言ったり書いたりする。
テレビで知っている人のすべったりころんだりについて、
言ったり書いたりもする。
肩をぐるぐる回すように、指をぽきぽき鳴らすように、
ストレッチしたり、その場で軽くジャンプするように。
書きたくないことや、書かないでいたいこと、
書けっこないことや、書けそうだけどあきらめたこと。
つまりは、書けないことばかりが、
マリンスノーのように降り積もっていく。
言えること書けることは、おどろくほど少ない。
そして人は、あらためて沈黙の大きさを知る。
「常にいのちの増す方へ!」と、ある演出家が言った。
そうだ、そう思えばいいのだ。
書けないことではなく、書ける空間の広大さを見る。
降り積もる海の雪よりも、海そのものを見よう。
いのちの増す方へ向いた、ただの「おはよう」を、
ぼくらは見失っていたのではなかったか。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
毎日書きながらも、書かない時間をどう過ごすかなのだ。