優しくなりたい?人を思いやること。循環させること。
サバイディー!(こんにちは)
人を思いやること、やさしくあること、について。最近思ったことを、ぽろぽろと書いていきたいと思います。
生徒さんとの夕ごはん
修了式にこれなかった生徒さんから連絡がきて、ご飯を食べにいく。なんだろう。別に普通なのに、すごく大切にしてもらった、この感じ。人からもらう優しさとか思いやりを、受け取って、次の誰かにまわすこと。今感じてる嬉しい感覚、よっしゃー頑張るぞって気持ち、忘れないように味わっておこう。
— mikachanko(2月のみかづき) (@mikachanko0220) May 11, 2016
昨日、急にこの間まで一緒に勉強していた生徒さんから、電話が来た。「次のタームについての問い合わせかな?」と思ったら、「まだラオスにいる??」って。
修了式の日のうちあげに来れず、私がいつ帰るか分からなくて、まだ一年いるよーと笑いながら伝えると、じゃあご飯食べに行こう、と。
2週間ぶりに会って、少し市内から離れたシンダート(ラオス焼肉)の食べ放題のお店へいく。ラオス語と英語混じり交じりで話しながら食べる。本当に気が利いて、せっせと動いて、気持ちよい位よく食べる。「お金ない。My family is poor.」なんて笑いながらもよく言っているのに、「ラオスにいるんだから」とおごってくれる。
そのあと、帰りちょっとスーパーによって買い物して、三日月きれいやーなんていいながら、なんでもない話をして家まで送ってきてもらって別れた。
”それだけ”だったんだけれども、なんだか帰ってきて家に着いて、すごく満たされていたんだよなぁ。それをなんかの形で残しておきたくて、普段つぶやかないtwitterに酔っ払いながらつぶやいていた(笑)
なんだろうなぁ、すごく大切にされた気がして。あー、暑くて最近ばてていたけれど、明日からまた気合いいれて、授業がんばろうなんて思ったり。お腹苦しかったけれども、「いい一日だったなー」なんて思いながら、眠りについたのでした。
やさしいってなに?
前から時々「人を思いやるって何だ」「やさしさってなに?」なんて、そんなことを思うのですが、ラオスに来てそう思う機会が増えている気がする。
自分のこと、「ああ、やさしくないなぁ」「なんて嫌な奴だ」って時々ものすごく、嫌になる位ぐーっと底の方から思うことがある。人のこと(故意に)傷つけてる態度をとって、自分の優越感を守ったり、人が失敗しているのを見て喜んだり、ほっとしている気持ちを持ったり。とことん無関心であったり。気分の上下によって(しかも説明もせずに)、周りをやきもきさせたり。本気で「私大丈夫か?」って心配になる位。
と、同時に誰かのために何かを頑張れているとき、プラスの手ごたえがあるとき「私って結構いい人なのよね。」「きっとやさしさが根底にはあるはず」と思う時もある。(こっちの方がずっと少ないけれど。)
でも、どちらの時も「やさしくありたい」もしかしたら「やさしくなきゃいけない」みたいな気持ちが、あるんだと思う。
人は、皆基本的に「やさしくありたい」もしくは「やさしいと思われたい」んじゃないか。それは、ちょっといやらしいか。やっぱり出来るだけ、「やさしくありたい」んだと思う。(でも、なんでだろう)誰だって気持ちよく誰かと過ごせて、自分がしたことで相手がよい気持ちになっていたら、嬉しいんじゃないか。
私も、やさしくない部分が強く感じられる分、ずっと気持ちだけは、事あるごとに「やさしくありたい」「強くなりたい」と思っていたように思う。それをどうしたら形に出来るのか、続けていけるのか(1度出来ても、自分の状態ですぐ戻ってしまう)、はイマイチ分からなくて難しいのだけれども。気持ちと行動。心がやさしくあること、相手が喜ぶ行動がとれること。一体どんなことなんだろう。「人を思いやる」というのも難しい。その人のことを思うこと。「思い」を「遣る」こと?
言葉から考えていくのも面白いかもしれない、やさしさという言葉。英語だったら、kindness?Compassion?なんとでも訳せそう。ちなみにラオス語はໃຈດີ(チャイディー)チャイ=心、ディー=良い。ちなみにちなみにラオス語で、恋しく思うは、ຄຶດຮອດເຈົ້າ(キットホードジャオ)キット=思う、想い、ホード=~まで、届く、ヂャオ=あなた。あなたに想いを寄せる。この言葉、好き。
さて、日本語の定義はなんなんだろうなぁ。今調べちゃわないで、少し取っておいて、また見てみたい。
やさしさを形に?
さて、やさしさ、はどうやったら形に出来るんだろう。行動として表すことが出来るんだろう。
関心を持つこと。気にかけること。知ろうとすること。感謝を伝えること。喜ばせること、笑わせること。分け合うこと。(惜しみなく?)与えること。一緒に時を過ごすこと。(時に)プライオリティーを相手に置くこと。誰かのために時間を使うこと。
その人の気持ちになってみること。その人が欲しいものを想像してみること。その人が悲しい時、辛い気持ちを推し量ること。話を聴くこと。何かしらの支えになること。前に進むことの何かしらの力になること。
形にすることも大事。でもきっと、そういう気持ちを持つことだけでも、尊いっていうか大切にするべきなのかもしれない。でも形にするのも大事だ。(どっちだ)
時々ふと、お茶(茶道)の稽古のことを思い出すことがある。特に1度客として経験させてもらった、お茶事 のこと。手間と時間のかかるお点前(お茶を入れる動作)や準備(本当に大変)は、みんな客(お茶を飲みに来る人)のこと、お茶一服のことだけを最大限に考えてのもの。
そんな風に想われて準備された過程や気持ちを想像して頂くお茶とその空間は、”もてなされる”、”大切に想われる”ってこういうことなのかなぁって思わせてくれた。今でもその日のことを思い出すと、どこか嬉しい温かい気持ちになる。
本ーーー当に、少ししか茶道のことを知らずにお稽古を止めてしまったけれど、(また絶対やりたい)茶道っていうのは、形から人のことを思いやることを学べるんだなぁ。そのあと続けていくうちに心がついてくるのかな、なんて思った覚えがある。
よいきもちを循環させていく
こっち(ラオス)に来て学んだ1つのことは、いいものは循環させればいいんだな、ということ。嫌な気持ちやものは、どこかで止めなければいけないけれど、(もしくは分け合って少なくする)いいものってどんどん廻したらいいんだって思えるようになったのは、自分の中ですごく大きい。
よく飲みに行く同僚の人は、本当にびっくりするくらい、いっつもよくしてくれる。「返せない!」と思って、時々怖くなってしまうくらい。
相手のやさしさを受け取るのも、なかなか難しいもの。最初の頃に、「いつも悪いなぁ」みたいなことを言って遠慮していたら、 「何かしてもらった時は、にこっとありがとうって受け取ればいいんだよ。もしいらなかったら、あとで捨てたり誰かにあげればいいんだから。その場で、にこっと受け取って、喜ぶことが何よりも喜ばれるんだから。そんで出来る時に、思いっきり恩返ししてくれたらいいよ」と言われた。
(してもらって嬉しかった時。好意でしてくれたはずなのに、嫌な気持ちになった時のちがいは一体なんなんだろう。相手に断る選択があったかどうか?”与えている”時の暴力的な感じ。またこれは考えたい。)
先生という立場、外国人+ボランティアという立場上だからか、何かをしてもらうこと、物をもらうことが多い。いや、その立場じゃなくても多分そうなんだと思うけれども!
いつも「返さなきゃな」って思う。「何が出来るかな」って。”お返し”するのも不自然だったり、下手くそなんですが。(さらっと自然にできる人がいつもすごいと思う)そんなんでも、やっぱり嬉しかったことや親切にしてもらったことは、循環させていきたいなぁと思う。
英語の授業をがんばるのだってきっと1つだし、たまにご飯やお菓子買っていってみんなで食べること。ブログでラオスのことについて書くのも1つかもしれないし。何か嬉しいことがあったときに、自分なりに思う”ちょっと誰かのためになること”を1つでもいいから、どこかで誰かにすること。それが今の私なりの循環させられることかもしれない。
今出来ること
うん、今出来ること。人に何かをもらったときは、感謝して受け取る。その嬉しい気持ちを味わっておく。こんなことをしてもらって、私は嬉しかったんだって覚えておく。相手に嬉しかったよって伝える。
次に自分が 出来そうなときは、それをまた返してみる。循環させるように。嬉しかった気持ちを思い出しながら。なるべく見返りを求めず、相手の反応にも期待しすぎず。
同時に相手がNoと言える隙間はなるべくあけておきたい。
それが出来るためには、なるべくいつも(それなりに)よい状態(上機嫌)でいれるように心がけること。(ここでまず、よくつまずく)
そうじゃないときは、そのことに気付いて出来たら吐き出すこと、人と自分に向ける言葉と行動に気を付けること、も大事だと思う。
ひさしぶりに、こうブログのフォーマットなどを気にせずに、思ったことを思ったまま書いてみた。言葉にしてこっぱずかしいような気持ちもするけれども、一回どこかにとりあえず着地できたような気持ちもある。やさしい、かぁ。そんなことあれこれ考えずに、地の心からでた行動が皆、やさしいものであったらいいんだけどなぁ。
そうはいかないからこそ、たまにこうやって考えてみたい。